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以下は誤字を含めてそのまま再出します。この批評は2009年9月1日、9日、そして11日に3回目を見たあと19日に出されています。2回目を見るまで8日ほど開いているのはおそらく何を見るべきかを予め整理して見直したからでしょうか。でもそれでも見切れず3回目を2日後に見ていますね。さらにもう一回見ていればまた違った批評が書けたことでしょう。自分の書いた批評を読みながら改めてこれを書いてよかったと感じられます。2023年9月15日藤村隆史
映画批評
「四川のうた」(2008)ジャ・ジャンクー~白の誘惑について2009.9.19
1958年、四川の成都に建設され50年にわたり国営工場として操業されてきた「420工場」が2007年閉鎖される。そこで働いていた人々とその家族たちの生活を描いたのがこの「四川のうた」という「ドキュメンタリー映画」である。
映画は真っ暗な画面の中に鳴り響く騎兵隊の起床ラッパのごとき就業ラッパによって開始され、明るくなった画面でキャメラは工場の外から、工場の大きな門を自転車に乗ってくぐって入って行く労働者の群れをやや俯瞰気味のロングショットで捉えている。
リュミエール兄弟が撮った1895年の作品は、仕事を終えた労働者たちが門の外へと出て来る光景を映し出していたので「工場の出口」という題名で呼ばれたが、仮にリュミエール兄弟が工場の中へと入って行く労働者を捉えていたらならば、あの歴史的作品は「工場の出口」ではなく「工場の入り口」となっていただろう。そんな重大な事実をこの「四川のうた」は教えてくれている。工場には「出口」など存在しない、あるのは、内と外とのあいだに開け放たれたひとつの空間に過ぎない。それを「出口」にするか「入り口」にするのかは、人の流れなのだ。
続いてキャメラは工場の中で、オレンジに燃え盛る鉄の塊を処理している労働者の手元を映し出している。しばらくしてキャメラは方向を変えると、「赤」の半袖のシャツを着た労働者らしき者の右半身だけをロングショットで捉える。次の反対方向からの近景の画面によって初めてその赤いシャツの正体は、十代の娘らしいことが分かる。鮮やかな赤いシャツに身を包んだ娘は、豊かな黒髪をグリーンのタオルで後ろに束ねながら、機械へと向って淡々と仕事をしている。
さらにキャメラは、工場閉鎖の記念式典へと向う労働者の大きな群れの流れを入り口や階段の数ショットで捉えながら、会場の舞台をロングショットで正面から捉え、赤い衣装を着た二人のアシスタントの娘を画面右隅に捉えたそのショットは、真っ赤なバラが花瓶に生けられているスピーチ台を斜めから捉えた舞台の側へと切り返され、式典が開始される。
だがキャメラは、まるで溝口健二「残菊物語」(1939)において、宴会から一人去って行く花柳章太郎を捉えたあの記憶のように式典をあとにすると、スピーチの音声が聞こえて来る工場の折り返し式の階段をゆっくりとひとりで上がってくる男を真上から捉え始める。キャメラは雨に打たれる割れた工場の窓ガラスを捉えながら、ボヤけた画面のままゆっくりと右へとパンし、転換されたショットによって一人の男の顔をクローズアップで捉える。
大勢の人々が集る華やかな群衆としての式典とのコントラストによって、映画は類のロングショットから個へのクローズアップへと転換されている。そのクローズアップの直後、この映画の中で、全部で五回入るオーヴァーラップの中の最初のオーヴァーラップがゆっくりと入り、画面は廃墟に吊るされた三つの裸電球と男の顔とをオーヴァーラップで重ね合わせながら「二十四城記」というタイトルが暗い画面に浮き上がってくる。
廃墟と化した工場の空間で殺風景に椅子に座った男の「歴史」が語られ始める。
■密閉
男は決して画面の中に入ってこないインタビュワーに向って淡々と過去の出来事を話始める、そこで語られた「多くの人の手を通ってきたものをおろそかにしてはならない」という先輩労働者からの感動的教訓とは対照的に、ジトジトとした雨音によって閉ざされている廃墟の中は、夏だというのに寒々とした空気が充満している。
男は窓を背にして内向きに座って話をしており、背景の窓の幾つは開け放たれているものの外景は見えず、空間には閉塞感が漂っている。
その後キャメラは椅子に座っている男の斜め俯瞰へと引かれたあと、男の話の中に出て来た先輩労働者の肉親が入院している病室を捉える。窓が締め切られ、露出オーヴァーによって外景が真っ白に飛ばされた病室のベッドの上では白髪の老婆が病気を嘆き、それを幾人かの付き添いの者たちが不安そうに見守っている。
その後映画は、先輩労働者の家へと向うのだが、彼のアパートメントの全景や家の中へと向う男を捉えた横の移動撮影はあるものの、すぐにキャメラは家の中の密閉された空間へと入って行き、男と先輩労働者との会話は近景から撮られ続け、そしてこのシークエンスには窓すら画面の中に入って来ない。
■バドミントン
映画は、420工場の元保安課長のインタビューへと流れてゆく。壁に貼られた「赤」の横断幕に黄色の文字が浮き立つ劇場の閉塞した空間の中で、客席に座った元保安課長のインタビューが始まる。背景に見えている舞台の上では、労働者達であろうか、ネットを張って、バドミントンをしている。そのバドミントンが何とも下手糞なのがまた面白くて、私は手前のインタビューを無視してその背景ばかりを見ていたのだが、ジャ・ジャンクーは私のその好奇心を察したかのように背景のバドミントンだけをフルショットで映し出した。ほんの数秒のことではあったものの、舞台の照明の中で幻想的に繰り広げられる下手糞なバドミントンは、密閉され、窓もない劇場という空間に、奥の拡がりをもたらしながら、映画の中で初めてとも言うべき潤いをもたらしている。これは「フィクション」なのだろうか。
■バス
しかし映画は再び密閉された空間の中へと戻って行く。次は元修理工の中年の女性である。まずこのシークエンスは、日が落ちた夕暮れの大通りを渡りバス停へと向う若者たちをパンで捉えたショットから入って行くのだが、若者たちがバス停へ到着した瞬間、バスが出発してしまう。なんというか、これは映画とは関係ないのかも知れないが、なにかおかしい。遠景に取り残された若者たちの身振りを良く見てみると、どうも彼らは、折角バス停に着いた瞬間、バスが行ってしまったことに腹を立てているかのようなのだ。少なくとも自嘲気味なのである。これはいったい何を意味するのか、それともしないのか。
そんな不可解さとしての豊かさに包まれながらも、画面は再び窓によって密閉されたバスの中の女性の姿を固定したキャメラで延々と撮り続けている。舗装の完備された成都の道路は、見事に揺れ続けた「東京物語」(1953)の観光バスとは対照的に殆ど揺れることもなく、背景の高い窓から見える僅かな上部の外景を流しながら淡々と進んでゆく。過去の話に熱中し始めた女性は、窓の外にはまったく興味を示していない。
■まーじゃん
そこから映画は、退職者の娯楽室で麻雀をして楽しむ退職者たちの姿を映し出し、その後映画の中での三度目のオーヴァーラップが挿入されることになるのだが、休憩室の人々はみな麻雀に集中し、窓は締め切られ、外景は露出オーヴァーで飛ばされてまったく見えず、外を見ようとする者もまた一人もいない。
■点滴の女性~フィクションへ
点滴を持ち上げながら歩いて来るという、異様な体勢で職場へと向う元生産ラインスタッフの中年の女性は、戦闘機の置いてある公園や路地をゆっくりと職場へと歩いてゆくのだが、彼女は景色や事物にはまったく目もくれず、途中、二階の窓枠で「赤」の衣装に身を包んで裁縫をしている女性と儀礼的な挨拶を交わしたものの、我が道を行くで、脇目も触れず一直線に職場まで進んでゆく。
映画はこの二階の窓枠に腰掛けた「赤」の女性との挨拶やカメラワーク、それに続く事務室での新入社員の娘との会話のあたりから「フィクション性」を惜しげもなく露呈させ始め、次の「元職場の花」の女性の出のシークエンスに至ってはっきりと「フィクション映画」として撮られ始めている。それはまた、最後まで「うそ」を突き通せるとタカを括っているNHKの路上インタビューの精神とはかけ離れた「倫理」であるだろう。低俗とは「うそをほんとうと言い張る」ことであり、「高貴」とは「ほんとうをうそ」と言い張る豊かさである。
さて、窓が締め切られ、外景は露出オーヴァーで飛ばされてまったく見ない閉塞感漂う事務室の中で女性は、新入社員の若い娘に「人前で化粧をするのか?」と怪訝そうに尋ねている。
家の中でのインタビューへと移行しても、窓際に座っている女性は決して窓の外を見ようとはせず、インタビューが終わった後、キャメラをゆっくりと左にパンしながら壁を挟んで撮られた時もまた、女性は窓に背を向けながらキッチンの椅子に座り、うどんを食べ、目の前に置かれたテレビに集中していて「外部」へと興味を示すことはない。
■内向き
この「内向き」の映画はひたすら「記憶=過去」に向けられているのだろうか。確かに「記憶」とは「現在」呼び覚まされる範囲において「記憶」であり、したがってそれは「現在」以外の何物でもないとしても、インタビューに応える人々の「内向き」の身振りは「将来」としての「現在」ではなく「過去」としての「現在」へと閉じ込められているようにも見える。彼らの過去の記憶が現在としての彼らの感情を刺激し始めると、語り手たちは、あるいは俳優たちは、「現在」を「過去」で一杯にしながら高揚し、時に涙に咽びながら話を続けてゆくのだ。
この映画は「未来」を否定しながら「過去」を賛美し、思い出としての「記憶」へと向けられた映画なのだろうか。閉塞感漂う空間の中で、ひたすら「内」へ向って「過去」を話し続ける「現在」の人々の内向きの素振りは、そうした推測を補強する細部として十分すぎるほど機能している。
■人前で化粧をすること
キャメラはビルディングの一室でコーラスの練習をしている女性達を左から右への横移動とパンによってゆっくりと映し出している。人々はみな「窓を背に」して椅子に座っており、ここでもまた「外部」へと瞳を向けている者はひとりもいない。キャメラは角でターンし、すべての人間たちを映し出してから停止すると、その停止した構図の中にピタリと収まった二人の女性が会話を始める。そのタイミングからして、ここで映画は点滴の女性のシークエンス以上に「フィクション性」を露骨に際立たせている。画面の中では、テーブルの左側に座っている、薄紫のセーターに身を包んだ女性が、マスコットを鏡にしながら眉を書いて化粧をしている。「プラットホーム」(2000)では、思春期の娘のさり気ない密室のサスペンスとしてのプライベートな空間でなされていたこの「眉を書く」という女性の化粧は、「四川のうた」においては、水商売風にも見れる女の「人前で化粧をする」大胆さと派手な身なりによって対照的に撮られている。女は眉を書いたあと、人目もはばからずあっけらかんと口紅を塗り始める。
『この映画は「未来」を否定しながら「過去」を賛美し、思い出としての「過去」へと向けられた映画なのだろうか。』
私はそう書いたが、以前のシークエンスで否定的なニュアンスで語られた「人前で化粧をする」という行為を恥かしげもなく披露しているこの女性は、「過去=記憶」を賛美するこの映画において、時代の変遷を象徴するものとして否定的に捉えられているかのようである。事実このシークエンスは前述のように、カメラワークと会話の開始とがピタリと一致するところからして、「フィクション性」というものをあられもなく露呈させながら撮られており、この女性の化粧における、周囲をはばからないその大胆な身振りは、明らかに意図的に「演出」されているのだから。
女は、美容室の客席に座りながら、窓を背にしてインタビューに答え始める。紫色のセーターの胸にはキラキラとしたイミテーションのガラスの数々が飾られ、耳には派手なイヤリングが付けられ、爪にはマニュキアがほどこされ、首に巻かれた黒いストライプの入った白のスカーフは、その先端を、一方は下へ、そしてもう一方は彼女の右肩の後方へと向けてカーブさせている。いかにも現代的なファションに身を固めながら大胆な素振りによって傍若無人に振舞っているかのように見える彼女は、「人前で化粧をすること」を否定的な行為として受け止めていた点滴の女性とは、世代的にも大きく隔たっている。
インタビューに答える彼女は、自身が工場のアイドル的存在であったという自慢話を大きな身振り手振りで語り始める。一度目のフェイド・アウトのあと、かつて好きだった男の話が始まると、彼女は少しずつ高揚し、身振りの動作もまたそれに伴って大きくなるにつれて、彼女の右肩に掛けられたスカーフの先端が少しずつズリ落ちてくる。最初、女の首の右のあたりで巻かれていたスカーフの結び目が、少しずつ喉元の方へとずり落ちはじめている。しかし過去の記憶に侵されている彼女はまったくそれに気付きもしない。
鼻水をすすりながら話し続ける彼女の話が男との別れに及んだ時、スカーフはずり落ち、二度目のフェイド・アウトによって画面は暗くなる。再び画面が明るくなっても、スカーフはずり落ちたまま、彼女はそれをまったく知らないかのように、男と別れた経緯を泣きながら話している。最早ずり落ちたスカーフは流行の優美さを喪失し、枯れた花のように萎れている。美容室の大鏡には、そんな彼女の背中が映し出されている。さらに目を進めてゆくと、その後方には、開け放たれた空間で風に漂う「赤い」洗濯物たちがユラユラと断続的に風に揺れている。この映画のインタビューにおいて、初めて開け放たれた空間が我々の前に露呈したのは、あろうことか「鏡の中」においてであり、そこには、派手な服を着飾り「人前で化粧をする」女の姿とは似ても似つかぬ女のもう一つの顔=背中が淋しげに映し出され、さらにその背景では洗濯物の「赤」が揺れ続けている。
まるでこの映画を「過去」への哀愁と受け取り、時代の変遷が女性の羞恥心や身だしなみをも頽廃させているかのかように安易に判断を下しかけている我々をたしなめる様に、画面は鏡の中の「背中」と、その背景の「揺れる赤」によって、ひたすら女を「肯定」しているのだ。
それまで深層に隠されていた女の、そのフィクションともドキュメンタリーともつかぬ内面が、その身振りや声の抑揚によって深層から表層へと溢れ出し、それと同じくするようにして彼女の背後では、鏡の中に、彼女の通常では見ることのできない背中が振動をし、そのやや淋しげに丸まった背中と、その背中を優しく包み込むような風で揺れている赤い洗濯物が瞳を捉えた時、「否定」であるように見えていた画面が実は「肯定」であり、あらゆる労働者も歴史も「肯定」の中にいて、それらは決して『過去=記憶』ではなく、「未来」へと向けられた「過程」そのものとして、「鏡」と「洗濯物」と「赤」と「風」という、明らかに意図的に演出された「フィクション=映画」によって「肯定」されている。
映画は世代を超えながら、ひとたび閉塞から解放されたとき、一気に解放へと速度を強めて行く。「元職場の花」の女性のインタビューのシークエンスが終わると、画面は工場の門の上に付けられた看板が下ろされるシーンが映し出される。最早この画面をして「過去への郷愁」という否定的な画面として捉えることは不可能である。画面は工場の窓に佇むアゲハチョウを捉えた後、軽やかな街のメロディーにのせながら、これしかない、というタイミングでもって、屋上でローラースケーをする赤いシャツをした少女の滑走を捉えるのだ。
■赤いシャツをしたローラースケートの少女
赤いシャツをした、、というのは日本語としておかしいのかも知れないが、どうしても「赤いシャツをした」と書きたくなってしまうような、まったき「赤」に身を包んだ細身の少女が、これまでは禁じられていたかのごとき「疾走」という運動を、屋上という開け放たれた空間と足に履いたローラースケートによって見事にやってのける。「プラットホーム」(2000)において、「赤」のドレスに身を包んだ娘が突如フラメンコを踊り始めたあの驚愕の「赤」を想起する間もなく、それまでの「内向き」のこの映画が、まるで嘘でもあったかのような圧倒的爽快感によって「外部」へと解放され、世代を超え、過去を現在に取り込みながら「未来」へと向ってゆくその時、映画は、「フィクション」としての「白」に包まれてゆく。
■赤
映画の中で、五度目に映し出された「工場の出口」のロングショットには「二十四城」という新しい看板が取り付けられている。その後、「赤」の椅子や壁を背景にして、TVのニュースキャスターとなった青年のインタビューが開始される。彼はこれまでの人々のように工場での労働の記憶を語りはしない。工場の労働者にはならなかった記憶を語り始めるのである。
それにしても、冒頭の工場の「赤」の工員から始まって、記念式典の真赤な薔薇、「工場の元アイドル」の背景に揺れる赤の洗濯物、赤いシャツをしたローラースケートの少女、そして赤い椅子、大勢の労働者を映した記念撮影においては「赤」のセーターを着た女性の労働者が中央に配置されている。ヤンチャな過去を想起するスポーツ刈りの男の初恋の少女の髪型が「赤い疑惑」の山口百恵そっくりであったという事実は、最早偶然というには余りに出来すぎている。中国映画だから「赤」なのだ、という断定は、例えばジャンクー監督の決定的傑作「青の稲妻」(2002)における主人公の男性たちの衣装から「赤」が排除されていた事実を見れば十分だろう。女性の衣装にしても「赤」は決定的場面においてのみ「フィクション」として露呈しているのだ。
■赤から白へ
工場が取り壊され、そこから真っ白な粉塵が画面いっぱいに広がった瞬間、映画は「赤」から「白」のイメージへと移行してゆく。
『我らがかつて行い
考えていたことは
必然的に散ってゆき
次第に淡くなってゆく
石の上にこぼされた
牛乳のように
という、イェイツの詩がテロップに流れてくると、「真っ白」の画面の中に、「真っ白」な服に身を包んだ娘が現われ、またしてもここで口紅を塗り始める。その口紅は、「チェンジリング」のアンジェリーナ・ジョリーのあの口紅のような「真っ赤」な口紅には程遠い、淡い桃色であった。
ショルダーバッグを肩に掛け、キャリーバッグを引きながら路地を歩く彼女は、通りがかりのアベックに軽く会釈をしたあと、「真っ白」の車に乗って、殺風景に公園に置かれた戦闘機の前を通過すると、或る空き地に車を止める。彼女は「白」い車の窓枠に肘をついて、「窓の外」の何かを見つめている。
映画の中で、初めて人が「窓の外」へと体を向けた。
だがその驚きの画面に震える間もなく、まるで夢見心地のようなうっとりした彼女の瞳が私をもう一度驚かせる。彼女白い車の後方には、見事に咲き乱れた黄色い花が一面を謳歌している。それなのに彼女は、それらの「黄」に一瞥すらくれることもなく、じっと反対方向の「何か」を嬉しそうに見つめているのだ。あんなに美しい花を見やることもなく、彼女は何を見つめているのだろう。だが決して画面の中には「見つめられていた対象」が映し出されることはない。それはまるで後期の小津映画のようにして、頑なに主観ショットとしての見た目の対象を画面の中へ配置することを拒絶しているかのようである。そんな彼女の瞳をひたすら見つめるしかない私は、完全な宙吊り状態に追いやられてしまうばかりか、こんなバカなことがあってもいいのかとうろたえている私を置き去りにするように、画面は彼女が見ていたものについて何ら説明を加えることもなく、廃墟となった中学の中へと転換されてしまうのである。いったいこの成都という曇った大都市のどこに、見事に咲き乱れたあの「黄色い」花々を無視してまでも若い彼女の目をひたすら釘付けにし恍惚とさせる「何か」があるというのだろうか。
■窓の外
廃墟となった中学校の中をしばらく徘徊したあと、彼女は立ったまま窓際の壁によりかかってインタビューに答え始める。その瞬間、彼女の背後には、被写界深度の深いレンズによって開かれた成都の街並みが大いなる奥行きをもって映し出されるのだ。この映画で「窓の外」が、画面の中に透き通った奥行きでもって露呈したことなど果たしてあっただろうか。
最初の工場での男性のインタビューは窓と雨によって外から遮断され、病院のシークエンスでも窓は締め切られた上に露出オーヴァーで真っ白に飛ばされていて「外」が見えなかったはずである。その直後の、耳の遠い先輩労働者の家や劇場のシーンでは窓は画面の中に登場することすらなく、バスの中での女性のインタビューにおいてもまた閉められた窓の外の光景は画面の隅へと排除され、外部を見渡すことなどできなかった。点滴をした女性の事務所の窓もすべて閉ざされ、さらに露出オーヴァーで真っ白に飛ばされていて外部はまったく見えなかったはずである。その後の点滴の女性の家でのインタビューにおいても、とって式の引き出し窓は締め切られており、かろうじて窓からは庭が見えているものの、小さな庭は外壁に遮られ、それは間違っても「見通しのよい」外景などというものからは程遠い「小津的光景」であり、そのインタビューが終わった後、キャメラをゆっくりと左にパンしながら壁を挟んで撮られた点滴の女性は、窓に背を向けてキッチンの椅子に座り、うどんを食べながら目の前に置かれたテレビに集中しており、背景の窓はここでもまた露出オーヴァーで真っ白に飛ばされていて外部はまったく見えなかったはずである。山口百恵の「赤い疑惑」が好きだと言った男性の喫茶店にしても窓は閉め切られて密室性を吐露しているし、工場のアイドルであった女性が眉を書き、口紅を塗っていたビルディングの一室の背後の右側の窓は確かに開け放たれてはいたものの、隣接するアパートの大きな壁によって風景を見渡すことを禁じられていたはずである。さらにその後の美容室でのインタビューにしても、あくまで見渡せた外部は「鏡の中」のそれであったのであり、インタビューが終わった後、自分の家の台所で物思いに耽って立っている女性の背後にある窓は、ここでもまた露出オーヴァー気味に飛ばされ外部は見えていなかったと記憶する。
確かに映画の中には、逆光で撮られた木々の隙間から見え隠れする太陽が画面の中にローアングルで収められたり、工事中のビルディングのロングショットなどがロケーション撮影として幾度か挿入されている。しかしそれらは決して工場を擁する街の外部を開放的に撮ったものではない。「赤い疑惑」が好きだったというあの男性がエピソードとして語っていたように、工場労働者たちは学校から何から外部から画された一つの街として独立して生活し、そこから外部へ出て行くことは、まさに命がけの飛躍であったのであり、それまで映画の中で撮られて来たロケーションのショットはみな、「閉ざされた街の内部」のショットにほかならなかったのである。
だが映画に「白」が包み込んだ時、廃墟となった工場の中学の窓から初めて「工場の外部」がはっきりとした拡がりによって娘の目の前に開けたのである。
「職場の花」と謳われたあの口紅の女性の背景の「鏡」がいざない、赤いセーターをしたローラースケートの娘が一気にそれを解放し、「白」によって視覚的にはっきりと映画は「外部」へと飛躍している。
中学校の薄汚れた窓の側に寄りかかりながら、娘はインタビューに答え始める。彼女は仲買人として香港という「外部」へ顧客の買い物へ行って稼いでいると言い、誇らしげに「あれが見えるか?」と、工場の「外部」にある背景のテレビタワーを指差しながら「自分はあのタワーのレストランを任されるかも知れない」と夢を語り、「自分はスーパーウーマンになれるかも知れない」とテレ臭そうに語っている。
工場の「外部」を象徴するように遠方にそびえ立つテレビタワーは、スモッグで「真っ白」にかすんでいる。ここでキャメラが、テレビタワーの手前に多くの車たちが疾走しては消えて行く高速道路を捉え続けているのは間違っても偶然であるはずがない。成都の「外部」は、車の吐き出すスモッグによって「真っ白」に煙っている、そのためにこの構図は必要とされたのだ。だがそんなスモッグに埋もれたテレビタワーを「あれが見えるか?」と尋ねる娘の瞳とその身振りには、一片の卑屈も否定も欠如もなく、あるのはひたすら肯定することによる憧れの身振りにほかならない。彼女の表情や口ぶり瞳は、まるで「真っ白」な車の中から何かを見つめていたあの瞳と同じように、憧れているのだ。
次第に太陽が傾き、外部の光線の変化が内部の光線のうつろいへと直接通底したとき、彼女は、不和であった母親に関するある感動的なエピソードを絞り出したあと
「両親に二十四城の部屋を買ってやりたい」と、希望を述べている。
映画に初めて「外部」が映し出されたとき、そこは「白」が満ち、インタビューされた人の口によって初めて「未来」が語られ始める。ビルディングの屋上から成都の街をみつめている娘の姿を映し出し、キャメラはゆっくりと左へパンをし、スモッグで「真っ白」となった成都の街を映し出していく。ここでキャメラを、まるで溝口の「山椒大夫」(1954)のラストシーンのようにゆっくりと左へとパンさせたのは、溝口を敬愛するゴダールが「軽蔑」(1963)や「気狂いピエロ」(1965)のラストシーンでキャメラを右へとパンさせたのと同じように、「肯定」としての映画史の反復にほかならない。仮に「感動」なる言葉を使うとするならば、「四川のうた」の感動とは、「人前で化粧をすること」や「スモッグ」という、本来であれば否定的であるはずのものたちが、「風」や「白」、あらゆる映画的振動によって、実は最初から徹底的に「肯定されている」という事実以外の何物でもない。そこにあるのは「ドキュメンタリー映画」を「フィクション映画」によって「否定」することによってなされる機械的な肯定ではなく、「ほんとう」を「うそ」と言い張ることによって浴びうる倫理的賞賛でもない。そうした境界線を無にしてしまう、ひたすら捉えどころのないしなやかな差異の振動に立ち会ってしまったことに対する不思議である。
■エピローグ~白い車の中から彼女が見ていたもの
映画が「白」によって「外部」へと飛翔したのなら、「白い服」を着た彼女が「白い車」の中から見つめていたものは、黄色い花畑という「内部」ではなく「外部」でなければならない。黄色く咲き乱れる花々に目もくれずに「白い車」の中からじっと見つめていた対象は、紛れもなく「外部」であったはずである。
こうして映画は、あらゆる「否定的なるもの」をひたすら肯定してゆくことの繰り返しで終わっている。否定したものを埋め合わせてゆくのではなく、何もかもをひっくるめて肯定して生きてゆく、そうであるからこそ、白い服に身を包んだ白い車の娘の瞳は、ラストシーンと同じように、「白」を見つめていたはずである。
映画研究塾2009.9/19